学校法人同志社 HOME > News一覧 >創立142周年記念式典を執り行いました

2017.11.19 創立142周年記念礼拝を執り行いました。

 

11月19日10時30分、「創立142周年記念礼拝」が、学校法人同志社、日本基督教団同志社教会主催のもと、大学神学館礼拝堂において執り行われた。

 望月修治牧師(日本基督教団同志社教会)の司式のもと、説教者の村上みか同志社大学神学部教授が、「愛を生きるということ-葛藤と喜びと-」と題して次のように説教をされた。
 『同志社の創立者新島襄は、1886年の説教でこのように述べています。「キリスト教とは何かと尋ねられたら、『愛をもってこれを貫く』と答えたい。」たしかに、イエスは愛を生きること、愛を貫く生き方を教えました。しかし、それがいかに難しいことであるか、聖書はそのことをも伝えています。
 マタイによる福音書は、この世でキリスト教を伝道することの困難を語ります。それは「狼の群れに羊を送り込むようなもの」(10章16節)であり、「私(=イエス)の名のために、あなた方はすべての人に憎まれる」(同22節)。さらにイエスが来たのは「平和ではなく、剣をもたらすため」であり、家族との関係さえ断たれる可能性がある(同34-35節)―これが信仰に生きる人のあり方だ、と述べられるのです。
これらの厳しい言葉には、この福音書が生まれた時代(紀元80年代以降)の状況、すなわち初期キリスト教への迫害の状況が反映されていると考えられています。初期のキリスト者たちは、伝道活動を行う中で、周囲の人々から理解されず、厳しい迫害を受け、苦悩と悲惨の中でこれらの言葉を残しました。信仰に生きるということは、この世において困難を受けつつ、自分の十字架を負い、キリストに従うことである、というのです(同38節)。
 この世界において、イエスの教えた愛を生きることは容易ではありません。神に心開かれ、真実に心開かれ、隣人を思って生きる・・・この世はそのようには動いていないのです。新島襄も同じような問題意識をもっていたようです。イエスは敵をも赦す深い愛を教え、右の頬を打たれたら左をも差し出せ、と教えた。そして自らそれを実践した。それなのに私たちは、とかくそれを忘れてしまうーそう新島は述べています。私たちはこの世の楽しみを求め、富や成功を欲し、評価されたいと願い、この世でうまく、心地よく生きたいと、どこかで思っているでしょう。あるいは、はかない人間関係に多くを頼り、それに気を遣いながら生きているところもあるでしょう。大変なことがあると、そこから逃れ、自分を守ろうとしているかもしれません。日々の生活において、私たちは愛を貫くには程遠いところにあるのではないでしょうか。自分のことしか見えない状況で、愛を実現することは不可能です。
 しかし自分のことしか見えないありように気付くこと、実は、これが愛を実現し、貫くための重要な一歩なのです。人として十分でない自分の現実の姿を知り、神の前で悲しみ、悔いる、ということ、まさに自分の十字架を背負うなかで、囚われから解放され、愛を実現する可能性が開かれるのです。そして完全ではないにしても、少しでも愛がこの世に成就されるよう、祈りつつ生きることを始めるのです。それに伴い、葛藤や苦しみも生じるでしょう。しかしそれは幸いなことであるのです。私たちの現実や思いを超えた豊かさがそこには必ず伴うはずです。
 マタイによる福音書は、厳しい言葉を残しただけではなく、美しささえ感じられる山上の説教を残しています。「心の貧しい人々は幸いである。…悲しむ人々は幸いである。…義のために迫害される人々は幸いである。…喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」(5章3,4,10,12節)
 初期のキリスト者たちは困難を「幸い」であるとし、「喜びなさい」と呼びかけます。この世を超えた朽ちることのないもののために自らを差し出してゆく中で、困難な中にも満たされていた彼らの思いが伝わってくるようです。豊かさを生きた人間の姿が、ここにあります。
 新島襄も、このような豊かさをこの地に作り出す若者を育てようと願いました。実際、同志社は、そのような働きを日本の社会で果たす卒業生を輩出してきました。同志社創立の記念の時に、改めてこのことを覚え、私たちがそのためにふさわしい働きを担っていけるよう、心から祈ります。』

当日の様子

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